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HOMEWeb生きるWeb生きる(年表)橋爪 佑太(宮城県大郷町)

私の3月11日

宮城県 橋爪 佑太

 2011年3月11日14時46分、夜勤明けだった私は東京の自宅のベッドにいた。10日ぶりの休日だった。15時から渋谷で趣味のプロバスケットボールチームの試合観戦をし、19時から新宿で友人と呑もうと考えていた。 だが9連勤の疲れが出て、バスケ観戦のチケットを無駄にしてでも、とにかく眠りたかったので寝ていた。今までと変わらない日常を過ごしていた。

 揺れがはじまる前に、ぱっと目が覚めた。

 揺れ始めた。

 2日前にも大きな地震があったからだろう。「東北だ」と直感した。東京にいた私にとって、生涯経験したことのない揺れに襲われた。ズボンを履く余裕もなく下着姿のまま、高齢の祖母がいた2階に駆け上がった。 パニックを起こしていた祖母を抱きしめながらも、私はまだ冷静だった。2日前の東北の地震でも被害はそれほどでないという認識だったので、余震が続く中、なるべく被害が起きないことを祈りながら、テレビで状況を確認する。

 津波に押し戻される漁船を見てから、ただごとでないことに気が付いた。テレビに映った、津波に飲み込まれる家、車、人の映像。震えが止まらなかった。今考えると、名取市閖上地区の津波到達の様子だった。

 17時くらいだったろうか。母も帰宅し、父も無事が確認できた私は、職場からの緊急出勤要請の電話に出た。テレビの映像から、亡くなった方も多いと感じたので、自分ができることを今やらないといけないと、出勤を決めた。 当時の私は私鉄の鉄道員だったのだが、当然その鉄道も動いていない。通常、自転車と電車の乗継で40分ほどの職場に自転車で向かったが、歩道は人で溢れ、自転車を漕ぐことはできない。車道は、どこまでも全く動かないテールランプが続いていた。 結局、通常40分のところを2時間かけて職場に着いた。

 職場に着いて、すぐに帰宅難民に囲まれ続ける時間が続いた。JRは震災発生早々に当日中の運行再開を諦め、駅構内の安全が確保できないこともあり、駅を閉鎖した。JR線と並行して走る私の勤務していた私鉄に、いつも以上の人が押しかけてきた。 この時間には、震災発生時仕事していてすぐに帰宅命令が出て、状況も分からず帰宅難民になり、平常時と同じく電車が止まっている事に声を荒げる方も多くいた。 しかし私が、自分で知る限りの地震の状況や、テレビで見た東北の被災の様子を伝え続けると、未曽有の事態であることを理解してくださる方が時間を追うごとに増えていった。

 24時過ぎだったと思うが、電車の運行が再開された。この頃には、東北から悲惨な情報が徐々に入り始めた。余震も続くなか、お客さまと協力しながらの運行となった。「ありがとう」という言葉も頂いた。 お客さまのそれぞれが社会の構成員であると、自覚している顔をしていた。翌朝、運転再開予定のJR線が再開できず、6年間の鉄道員人生で最も激しい混雑も発生したが大きなトラブルもなく、皆疲れて苦しいだろうに協力して乗車していた。

 帰宅難民が収まったのは昼の12時前だった。皆、東北を想い、まず自宅の家族の元に帰って自分のできることは何かと考えようとしていたと思う。私の価値観もまた、大きく変わった日だった。

 その後は、計画停電や節電の為の列車の本数削減など多忙な日が続いた。合間で見る被災状況のニュースで、震災ボランティアの数が足りないとの報道が続いた。原発の水蒸気爆発でますます東北が遠くなった気もした。 3月11日までは、私は自分のことしか考えていなかった。とにかくプライベートを充実させて、効率良く稼ぐ。結婚して所帯を持ちさえすれば、社会の構成員の最低の義務は果たせるだろうと考えていた。 震災の日にお客さまから教わった「私も社会の構成員なのだ。少しでも私にできることをしよう」という意識から、日本人として何かしたいと考えるようになった。そして、数が足りないと言われていた震災ボランティアに参加しようと決意したことに至る。

 2011年5月、当時問題視されていた迷惑ボランティアとならないよう、東京都が募集して派遣した災害派遣ボランティアに参加した。宮城県気仙沼市、岩手県陸前高田市にあわせて1週間滞在し、主に泥だしを行った。 正直なところ、何もかもが想像と違っていた。メディアでは全てを捉え理解することはできないと実感した。その状況のなかで、強く優しく生きる方々に感銘を受け、私が逆に勇気づけられた。 その後、もう一度東京都の災害派遣ボランティアに参加したほか、個人でも活動し、他のボランティア団体の活動にも参加した。支援の内容は、時間とともに物理的・肉体労働的な支援から「心」の支援に移っていった印象がある。

 2013年1月、とある震災復興プロジェクトの現地スタッフとして、鉄道員としての仕事を辞めて今も住んでいる宮城県大郷町に移住した。 その活動は半年ほどで終えたが、緑あふれる大郷町に魅かれて、3年間農家で働き、宮城で生涯生活するため会社員となり、今現在慣れない営業マンをしている。そして、なぜか青年団員となった。

 ボランティアで東北に通い始めてからはもうすぐ7年目だ。復興の状況もずっと見てきたし、多くの方に被災時の状況を伺い、決してメディアで知れない話も多く聞いた。最近になって新たに聞いた話も多くある。 もともと、被災した沿岸部では多くの地域が過疎化していた。震災により過疎化がさらに先鋭化している。そして、7年間という時間で復旧出来なかったものが、復興を霞ませている。想定外の災害は、当然ながら想定していない状況を数多くつくり出す。 その影響で復興は遅れ、問題は現在進行形で発生し続けている。問題を追及して誰かに責任を取らせるという考えでなく、どう減災できたのか、どう早急に復興出来るか知恵を絞っていく社会であってほしい。

 その為に、機会があれば被災地にむけて数多くの人に足を運んでいただきたいし、そこで暮らす方々に話を聞いて欲しい。 災害を見つめ続けてアイディアを出し合うことは、今すぐ結果が出なくても、次の災害の時にきっと役立つ。とは言っても堅苦しくならず、初めての方は美しい風景と美味しい食事を味わい、可能なら震災遺構を見学したりお話を聞いたりしに来てほしい。 震災後、ボランティアで被災地を訪れていた方は、復興に伴う風景の変化を見に、そして知り合った仲間やお世話になった現地の方に会いに来てほしい。その合間にふと、自分なら災害時どうするか、自分に「今」東北の為に出来ることは何か考えてほしい。

 今回寄稿にあたり、私が伺った被災状況をまとめたり(津波がサイコロのように店舗を転がしていたなど)、その後の避難の状況をまとめたり(女性は生理用品がなくて困ったなど)、 現状の復興の様子や問題点をあげたり(土地所有者不明による買収の遅れが復興の遅れの一因など)、ボランティアの注意点をまとめたり、募金はこのような団体にしたほうがいいとか、こうした色々な観点から書こうとも考えた。 だが、なぜ私自身の3月11日を書いたかというと、「被災された以外の皆さん」に震災の日を思い出してほしいからだ。私自身、今は生活することで精一杯であるが、あの日の気持ちを忘れずに、ここ宮城でできる限り見つめ続けようと考えている。

 人間は、良い事も辛いことも、忘れる動物と言われる。あの日、被災された方々以外も、皆、想定外の災害に直面し、多くのパラダイム転換を起こした日ではなかったか。 現実的に、私のように東北に移住したり、逆に東京を離れ南の島に移住したり、電気を使わない生活を始めた人など、震災前と生活スタイルを変えた方が多くいる。

 だから、あの日感じたことをもう一度思い出して欲しい。そして、皆が東北の方々の為に祈ったあの気持ちも、もう1回思い出してほしい。青年団員の皆さんには、それをご自身の活動にいかしてほしい。 その上で可能ならば、やはり東北に是非足を運んで頂けるようお願いしたい。メディアやネットで分からないものが、たくさんあると思うから。

 最後になりますが、改めて、東日本大震災によりお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申しあげます。 あわせて被災された地域の皆さまと、そのご家族の皆さまに心よりお見舞い申しあげ、一日も早い復旧と皆さまの幸せを心よりお祈りいたします。

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